高野山|大師入定と毎日御膳を届ける「生身供」

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高野山|「奥の院」|大師入定と毎日御膳を届ける「生身供え」

高野山の東端に位置する「奥の院」。入り口にあたる「一の橋」から、最奥の「大師御廟」まで約2キロ。道中の参道には、約20万基もの墓石が連なっています。

 

奥の院の参道そのものが「浄土」への道

 

一の橋から御廟までの間には、3つの川と橋があります。これは、「川と橋を渡る」こと自体で、「極楽浄土に導かれている」ことを意味しています。

 

まず、最初の入り口となる「一の橋」。ここから、浄土の世界へ足を踏み入れることになります。続いて、「中の橋」、最後の「御廟橋」を渡ると、橋の向こうに「灯篭堂」が見えてきます。

 

大師入定の地としての「奥の院」

832年、大僧群(だいそうず)の役職を辞して、京の都から高野山に戻ったお大師様は、このとき58歳。そして、最後の仕事にとりかかりました。

 

832年8月、建設中の根本大塔で「万灯万華会(まんとうまんげえ)」を営んだお大師様は、衆生済度のための永遠の誓願を立てます。

 

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃つきなば、我が願ひも尽きむ」。

 

この法要から一切の食事を断ち、瞑想を続けて2年。3年目に入った835年には、ついに水さえ飲むのを辞めてしまいました。そして、弟子たちを集めたお大師様は、こう語ったといいます。

 

「私は、3月21日の寅の刻、山に帰る。嘆き悲しむことはない。これは、終わりではなく始まりなのだ。遠い未来、弥勒菩薩が下生されるまで、私は高野の東の峰で禅定する。そのときが来たら、私も弥勒菩薩と共に、この世に現れるだろう。もし、私に会いたくば、「南無大師遍照金剛」と唱えよ。私は、その者と常に共にいるであろう」

 

835年3月21日。大師入定。今も、高野山・奥の院に、お大師様が鎮座しています。

 

※弥勒菩薩…お釈迦様がなくなってから56億7千万年後にこの世に生まれるといわれている菩薩様で、お大師様は、いまこの兜率天で弥勒菩薩と一緒にいるといわれています。
写真は、四国お遍路で唯一、弥勒菩薩がご本尊になっている14番札所常楽寺の弥勒菩薩御影。


毎日、お大師様の御膳を届ける「生身供」

奥の院では、1日2回、お大師様に御膳を届ける「生身供(しょうじんく)」が行われています。これは、今もお大師様が「瞑想したまま仏様になっている」と考えられているため。

 

奥の院の「御廟橋」の手前にある「網地蔵」の前で、お膳の毒味をした後、出発の儀が行われます。

 

お膳は、すべて火を通した「一飯一汁三菜」の合計5品と決まっています。伝統的な精進料理が中心ですが、ときには洋風のアレンジをすることもあるそうです。

 

出発の儀の後、二人の僧侶がお膳が入った白木の箱を担ぎ、維那(ゆいな)と呼ばれる「仕侍僧」の先導の元、灯篭堂へ向かいます。

 

食事を備えた後は、読経して、また木箱に御膳を戻して来た道を帰っていきます。所要時間は、約30分。奥の院を訪れたら、ぜひ一度は拝観したいところです。

 

生身供 1日2回 6:00、10:30
奥之院御廟橋手前、水向け地蔵の前〜灯篭堂
※御廟橋から先は、撮影不可。そっと見守るように拝観するのがルールです。

 

 


京都・東寺でも「生身供」が毎日行われている

京都の東寺でも、毎朝6時に、お大師様にお膳を届ける「生身供」が行われています。

 

ただし、東寺の場合は1日1回だけ。お大師様が住まわれていた「御影堂」に、食事が供えらえれます。

 

東寺の「生身供」に行くと、「お舎利さん」と呼ばれる、おもてなしを受けることができます。「お舎利さん」では、仏舎利(お釈迦さまのお骨)が入った袋を、おでこにあててもらうことができます。

 

これに触れると、無病息災や家内安全のご利益があるといわれています。


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