高野山|密厳院・苅萱堂に伝わる「石童丸伝説」

苅萱堂に伝わる「石童丸伝説」

高野山|密厳院・苅萱堂に伝わる「石童丸伝説」

高野山・奥の院に続く「一の橋」の近くに、「苅萱堂」(かるかやどう)というお堂があります。

 

宿坊「密厳院」に属するお堂で、『生きるものを善に導き、亡者を極楽に導く』という「引導地蔵尊」が祀られています。

 

この「苅萱堂」には、もうひとつ。歌舞伎や浄瑠璃で有名な「石童丸伝説」が伝わることでも有名で、古くから多くの人々の涙を誘ったといわれています。

 

ここでは、苅萱堂に伝わる「石童丸伝説」をご紹介します。


父子の悲しい物語「石童丸伝説」

時は、平安時代の終わりごろ。

 

筑紫の国(今の福岡県)に、加藤繁氏(しげうじ)という若い領主がいました。

 

 

繁氏には、正室と側室の2人の妻がいましたが、表向きはともかく、内心ではお互いを憎しみあうことはなはだしく、ついには、正室が側室を殺す計画をたてます。

 

暗殺計画は実行されますが、これを事前に察知した家来のおかげで、難を逃れ、側室は加藤家から出ることになりました。

 

この事件を知った繁氏は、「嫉妬から人を殺そうとまでする」人間の恐ろしさと、世の無常にさいなまれ、妻子も家も捨てて出家します。

 

そして、高野山へ。ここで修行を重ね、やがて「刈萱道心」と呼ばれるようになります。

 

一方、家を出た側室は、実は、子供を妊娠していました。

 

繁氏は、そのことは全く知らず、生まれた子供は、父の顔も知らずに成長していきます。この子供が、「石童丸」です。

 

大きくなった「石童丸」は、風の噂に、「父が高野山にいる」と聴き、母を伴って高野山へ向かいました。

 

ようやく高野山にたどりついたものの、そこは女人禁制の聖地。やむなく、母を麓に残して、ひとり高野山を登ります。

 

高野山にたどり着いた石童丸は、父の居所を訪ね歩き、やがて、奥の院の御廟橋で、ひとりの僧に出会います。

 

実は、この僧こそ、実の父親・刈萱道心でしたが、既に、この世を捨て出家をした身。

 

自分が実の父親だとは名乗れず、「加藤繁氏なるものは、既にこの世を去った」とウソをつきます。

 

思いがけず、父の死を知った石童丸は、悲しみに暮れながら、山を下ります。

 

母が待つ場所に戻ってみると、なんと、母は長旅の疲れから急逝していました。

 

ついに、孤独の身の上となってしまった石童丸は、母を葬ると、再び高野山に向かいます。

 

石童丸は、父の死を伝えてくれた「刈萱道心」の元で出家し、弟子となります。

 

二人は、その後、子弟として一緒に修行する身となりますが、刈萱道心は死ぬまで「実の父は自分だ」とは伝えませんでした。

 

父子が共に修行した場所こそが、この「苅萱堂」です。

 

ところで、このお話には続きがあり、舞台は高野山から信州善光寺に移ります。

 

晩年、刈萱道心は高野山を離れ、信州善光寺で生涯を終えます。

 

夢で、その死を知った石童丸も、やがて善光寺を訪れ、刈萱道心が刻んだという「地蔵菩薩」にならい、同じような地蔵菩薩を彫ります。

 

この2体の地蔵菩薩は、「親子地蔵」と呼ばれ、今でも信州善光寺に祀られています。

 

 

 

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