高野山の宿坊|武田信玄と縁がある「持明院」「成慶院」(櫻池院)

武田信玄ゆかりの「持明院」「成慶院」(櫻池院)

高野山の宿坊|武田信玄と縁がある「持明院」「成慶院」(櫻池院)

超有名な戦国時代の武将のひとり、武田信玄。
上杉謙信と、何度も死闘を繰り広げた「川中島の戦い」は、とくに有名ですよね。

 


↑武田信玄「風林火山」の旗印。「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。」

 

高野山との関係では、実際に、高野山で修行をした上杉謙信のほうが縁があるようですが、実は、高野山には、武田信玄ゆかりの宿坊もあります。

 

武田家の菩提寺「持明院」「成慶院」

 

その、武田信玄とゆかりがある宿坊が、「持明院」と「成慶院」です。
39歳で出家した信玄は、その翌年(1559年)、この2つの宿坊と「宿坊契約」を結び、菩提寺としました。

 

武田信玄の53年の生涯の中で、高野山に足を踏み入れたことは、一度もありませんが、信玄の死後、息子・勝頼によって、位牌と肖像画が収められています。
また、実際の遺骨はありませんが、高野山奥の院には、今でも、武田信玄・勝頼の供養塔があります。

信玄ゆかりの2つの宿坊

位牌と肖像画が収められた「成慶院」

 

武田家の菩提寺となった、2つの宿坊のうち、位牌や肖像画が収められたのは、「成慶院」です。
「成慶院」は、明治以降、隣接する「櫻池院(ようちいん)」が、この宿坊を管理しています。

 

現在、成慶院は、通常非公開で、宿坊として一般利用することはできませんが、当時収められた「位牌」は、現在、「櫻池院」の本堂に安置されています。

 

※この位牌は、息子勝頼が収めたもの。
「自分の死を3年間隠匿せよ」と命じられた息子・勝頼が、遺言通り、3年後に、家臣を派遣して収めた。肖像画も、同時に収められています。

 

成慶院とは別の位牌と肖像画がある「持明院」

 

もう1つの宿坊「持明院」にも、「成慶院」とは別の、信玄の若いころの肖像画がおさめられています。
また、勝頼夫妻の肖像画なども、こちらの宿坊の所蔵。

 

※写真は、奥の院 手水場。

 

 


武田信玄・勝頼の供養塔

信玄・勝頼の供養塔は、奥の院・中の橋の手前に。

 

 

信玄の死後、10年で滅亡した武田家。
その、信玄と勝頼親子の供養塔が、奥の院「中の橋」の手前に、建立されています。

 

「戦場に、僧侶600人を同伴した」と伝わる、武田信玄。
信仰厚い武将の魂が、高野山に眠っています。

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