高野山|高野山開創にまつわる3つの伝説

高野山 開創にまつわる伝説

高野山|高野山開創にまつわる伝説〜三鈷の松・狩場明神・丹生都比売〜

今から、約1200年も昔。お大師様が、朝廷から高野山を賜ったのが、弘仁7年(816年)。

 

当時、都から遠く離れた、紀伊の山奥。高野山は、歩くと、「最低でも3日以上はかかる」辺鄙な場所にありました。

 

お大師様は、なぜ高野山に総本山を作ったのでしょうか? 高野山開創にまつわる伝説をご紹介します。


唐から高野山まで飛んで行った「三鈷杵」飛行伝説

唐で修行を終えた、お大師様。

 

「一刻も早く、日本に戻り、密教を広めよ」。

 

お大師様は、恵果(阿闍梨)の言葉に導かれ、日本に向かう船に乗り込もうとしてしていました。
船に乗り込む前、お大師様は「三鈷杵(さんこしょ)」を、宙に向かって投げたのです。

 

「日本に密教を広めるに、ふさわしい場所を示したまえ」

 

すると、この三鈷杵は、金色の色を放ちながら、紫雲の中に消えていきました。

 

三鈷杵(さんこしょ)とは
密教の法具のひとつ。心の中にある煩悩を調伏する役割があります。その基本となるのは、「金剛杵(こんごうしょ)」で、先端の鈷(つめ)の数が3つあるものを「三鈷杵」といいます。

 

※写真は、四国お遍路の札所にあった五鈷杵(ごこしょ)。先端のつめが5つあるタイプ。

 

 


高野山の地主神「狩場明神」と出会う

日本に戻り、密教の聖地を探していたお大師様は、2匹の犬を連れた狩人に出会います。

 

「私は、修行の地にふさわしい聖地を探しています。心当たりはありませんか?」

 

こう尋ねたお大師様に、狩人はこう答えたそうです。

 

「私は、高野山の犬飼です。よい場所を知っているので案内しましょう」。

 

すると、2匹の犬が先導して、お大師様を導いていきました。しばらくすると、龍が伏せたような形をした山にたどり着きました。

 

その場所こそ、現在の高野山だったのです。そして、この場所を教えた狩人は、高野山の地主神「狩場明神(かりばみょうじん)」だったのです。

 


「丹生都比売」にも許しを得る

狩場明神に導かれ、高野山にたどり着いたお大師様。

 

山の途中にある神社で1泊したとき。この神社の祭神「丹生都比売(にうつひめ)」に出会います。

 

「あなたは、この地に修行のための道場を作りたいのですね。
私は、この山の主です。この山をそっくりあなたに差し上げましょう」

 

お大師様は、狩場明神に続いて、「丹生都比売」の許しをも得ることができました。

 

2人の神様からは、この後、「高野山に伽藍や大塔を作る手助けをしましょう」という申し出を受けて、高野山の開創が始まりました。

 

高野山の檀上伽藍のそばには、狩場明神と丹生都比売を祀る社が建てられ、今に伝えられています。


「三鈷杵」との再会

後に、お大師様は、高野山の松の枝に、三鈷杵がひっかかっているのを発見します。

 

それこそ、まさに、唐から日本に向けてはなった、例の三鈷杵でした。

 

高野山の大塔前には、この伝説がつたわる「三鈷の松」が枝葉を広げています。通常の葉は、2本ですが、三鈷の松の葉は3本。まるで、三鈷杵のような姿をしています。


Sponsored Link

関連ページ

真言宗総本山「高野山」とは?
高野山は、お大師様(弘法大師空海)が開いた「真言密教」の聖地です。 今から約1200年前、弘仁7年(816年)、嵯峨天皇からこの地を下賜されたお大師様は、この場所に、真言密教の根本道場を開きました。 四国お遍路を廻っていると、険しい山中の札所が多かったのは、記憶に新しいところ。 高野山も、その険しい山の札所と同じように、標高約900mもある8つの峰に囲まれた場所にあります。東西6km、南北3kmの盆地で、空から見ると、「蓮の花」のような形をしています。
高野山の宿坊|「宿坊の選び方」
せっかく高野山に行くのなら、ぜひとも体験しておきたいのが「宿坊」です。 宿坊とは、寺院の宿泊施設のこと。 高野山には、117もの寺院がありますが、その中で、52の寺院に宿坊があります。 宿坊では、様々な体験ができますが、宿坊ごとに体験できることにも違いがあります。ここでは、宿坊選びのヒントになるポイントをご紹介します。
高野山|高野山の宿坊52か所、全一覧!
高野山の宿坊は全部で、52か所あります。 宿泊サイトで予約可能な宿坊もありますが、「直接予約」が必要なところの方が多いのが現状です。 ここでは、「高野山の宿坊に泊まりたい」と思ったときに役立つ宿坊をリスト化しました。 宿泊予約の際に、お役立てください。
高野山|宿坊別!ご本尊様全リスト
高野山にある52の宿坊のご本尊様リストを作成しました。四国お遍路を経験したお遍路さんは、四国で札所ごとに違う真言を唱えます。好きな仏様から宿坊を探したい人のために、ご本尊様一覧表にしてみました。
高野山|宿坊体験記|「大円院」に泊まる
高野山には、宿泊できる「宿坊」が52か所あります。 今回は、宿泊サイトで予約できる宿坊の中から、「大円院」を予約してみました。 1回目の四国お遍路結願後の、高野山参りに合わせての宿泊です。 大円院の精進料理や写経、朝の勤行などの体験記をご紹介します。
高野山の宿坊|上杉謙信ゆかりの宿坊「無量光院」「清浄心院」
日本史の有名な人物との縁が深い、高野山。 戦国時代の英雄で、武田信玄と並んで、名を知られている、上杉謙信。 彼も、高野山と関係が深い人物のひとりです。 義を重んじ、生涯結婚せず、仏教に深く帰依した上杉謙信。 24歳のとき、高野山に上り、無量光院で、真言宗に入信しました。 その後、一度世を捨て、高野山に隠棲しようとしたことがあるといわれています。 下剋上や裏切りが当たり前だった、戦国時代。 「越後の虎」と言われた上杉謙信の心のよりどころも、ずっと高野山にあったのかもしれません。
高野山の宿坊|武田信玄と縁がある「持明院」「成慶院」(櫻池院)
超有名な戦国時代の武将のひとり、武田信玄。 上杉謙信と、何度も死闘を繰り広げた「川中島の戦い」は、とくに有名ですよね。 高野山との関係では、実際に、高野山で修行をした上杉謙信のほうが縁があるようですが、実は、高野山には、武田信玄ゆかりの宿坊もあります。 その、武田信玄とゆかりがある宿坊が、「持明院」と「成慶院」です。 39歳で出家した信玄は、その翌年(1559年)、この2つの宿坊と「宿坊契約」を結び、菩提寺としました。
高野山|大師入定と毎日御膳を届ける「生身供」
今もお大師様が鎮座されている奥の院御廟。お大師様入定にまつわる話と、今も毎日行われている御膳だし=「生身供」をご紹介します。
高野山|奥の院に伝わる「弥勒浄土伝説」
弥勒菩薩とは、お釈迦さまの亡くなった後、56億7000万年後に現れる未来仏のこと。この世の救世主となる仏様で、今は兜率天(とそつてん)という場所にいるといわれています。 お大師様が遺した遺言から、お大師様が今も禅定している「奥の院=兜率天」という信仰が広がりました。
高野山|曼荼羅になっている高野山
お大師様が開創した「高野山」。 「まるで蓮の花のような地形」をしていることでも、知られています。 でも、実は、この蓮の形こそ、「曼荼羅」の世界を現していることは、意外と知られていないかもしれません。 「曼荼羅」とは、複雑な真言密教の教理を、わかりやすく形であらわしたもの。 仏様の世界を、視覚的に表したものでもあります。 ここでは、曼荼羅の世界と、高野山の関係について、見ていきましょう。
高野山|密厳院・苅萱堂に伝わる「石童丸伝説」
高野山・奥の院に続く「一の橋」の近くに、「苅萱堂」(かるかやどう)というお堂があります。宿坊「密厳院」に属するお堂で、『生きるものを善に導き、亡者を極楽に導く』という「引導地蔵尊」が祀られています。 この「苅萱堂」には、もうひとつ。 歌舞伎や浄瑠璃で有名な「石童丸伝説」が伝わることでも有名で、古くから多くの人々の涙を誘ったといわれています。 ここでは、苅萱堂に伝わる「石童丸伝説」をご紹介します。
本山は高野山だけじゃない?!真言宗の18本山とは?
「高野山」といえば、もちろん「真言宗最大の総本山」ですが、実は、ほかにも「総本山」と呼ばれる寺院があります。 その理由は、真言宗には、数多くの「宗派」があるため。 実は、それぞれの宗派に、総本山や大本山があり、主要な本山を「18本山」と呼んでいます。

ホーム RSS購読 サイトマップ
四国お遍路とは うつに効く理由 事前準備 モデルコース 女子に快適な宿 88か寺体験記