高野山の宿坊|上杉謙信ゆかりの宿坊「無量光院」「清浄心院」

上杉謙信ゆかり「無量光院」「清浄心院」

高野山の宿坊|上杉謙信ゆかりの宿坊「無量光院」「清浄心院」

日本史の有名な人物との縁が深い、高野山。
戦国時代の英雄で、武田信玄と並んで、名を知られている、上杉謙信。
彼も、高野山と関係が深い人物のひとりです。

 

 

義を重んじ、生涯結婚せず、仏教に深く帰依した上杉謙信。
24歳のとき、高野山に上り、無量光院で、真言宗に入信しました。
その後、一度世を捨て、高野山に隠棲しようとしたことがあるといわれています。

 

下剋上や裏切りが当たり前だった、戦国時代。
「越後の虎」と言われた上杉謙信の心のよりどころも、ずっと高野山にあったのかもしれません。

上杉謙信と高野山・無量光院

上杉謙信と高野山の縁の始まりは、謙信24歳のとき。
1533年9月、初めて上洛(京都に上る)した謙信は、その足で、高野山を目指しました。

 

当時の高野山は、非武装地帯。
そのため、武将の衣を脱ぎ、漆黒の陣笠をかぶって、左手に数珠をまいた姿で入山したといわれています。
そこで、無量光院の住職、清胤(せいいん)と出会い、真言宗に入信しました。

 

 

その後、越後に戻った上杉謙信は、武田信玄と再び対峙することになります。
第2次川中島の戦い(1555年)で、200日間、犀川を挟んでにらみあうものの、今川義元の仲介で和睦した戦いです。

 

この戦いの後、国に戻ると、今度は家臣たちの領地争いが始まり、ほとほとうんざりした上杉謙信。
突如、出家・隠居すると宣言し、高野山へ向かいました。
このときは、奈良周辺まで来た段階で、慌ててあとを追いかけてきた、義兄・長尾政景に説得されて、出家を断念。越後へ引き返します。

 

上杉謙信が、再び、高野山に上ったのは、30歳のとき。
1559年、当時の将軍・足利義輝の要請で上洛し、その後、高野山へ足を延ばしました。

 

このとき、再び、無量光院の清胤と再会し、師弟の契りを結びます。
無量光院と、上杉謙信の深い縁は、その後も続き、上杉謙信の名の由来となった「不識庵謙信」(ふしきあんけんしん)の号を授けられました。
1575年、上杉謙信が剃髪、出家した際には、清胤から「阿闍梨大僧都」の位階が与えられました。

清浄心院と上杉謙信

上杉謙信とゆかりがある高野山の宿坊は、もう1つあります。
それが、「清浄心院(せいじょうしんい)」です。

 

「清浄心院」は、奥の院にある「上杉家の霊屋」を管理している宿坊で、ここには、2代目上杉景勝の遺骨が眠っています。
(※謙信の遺骨は、当初、春日山城内に収められたが、上杉家の転封に伴い、会津から米沢へ移され、今は米沢の上杉家霊廟にあります)

 

 

清浄心院は、生前の謙信とも、深い縁があります。
無量光院で教えを受けた謙信は、この清浄心院も、祈願所として重用しました。
とくに、謙信が生涯崇拝した「毘沙門天像」は、いまも、この宿坊の本堂に安置されています。

 

また、上杉謙信の位牌は、この清浄心院と無量光院の双方の本堂にあり、今も、大切に祀られています。

 

※清浄心院、無量光院ともに、実際に、宿坊に宿泊することができます。
双方とも、直接予約以外の手段がないため、詳しくは、電話などで問い合わせる必要があります。

 

当サイトの管理人は、実際、一度「無量光院」に宿泊したことがありますが、この宿坊の朝の勤行は、荘厳で感動的でした。
毎朝、護摩をたくのも、無量光院ならではです。

 

※高野山の宿坊リストで、各宿坊サイトへのリンク先などもご紹介しています。ご参照ください。
高野山|高野山の宿坊52か所、全一覧!

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